爨宝子碑
隷書13行・行30字(正確には隷書と楷書の中間のような書体)で太亨4年(紀元405年)に刻されたもの。
宋の「爨龍顔碑」とともに「二爨碑」と呼ばれる。清の乾隆四三年(1778)雲南南寧から出土。
出土当時、無名であったが、約70年後の咸豊二年(1852)城中武侯祠に移し、鄧爾恆が碑の左方下部にその由を刻入したことによって世に広まった。
内容は雲南の豪族爨宝子が二三歳の若さで亡くなったのを悼んだもの。墓誌には形式的な賛美ばかりであり、具体的な内容はない。若かったためほとんど業績を残さなかったためと考えられているが聡明であったとされる。
画の雄強さ、運筆の飛動に特色があり、素朴さに満ち、天真を極めた逸品だが、書道史的な系統を考えると評価が難しい。
なぜならばこの碑は王義之没後30年に満たない時期に建立されており、中央に王義之の華麗な行書等が流行していた時代に同じ南方になぜこのような書体が存在していたのか謎だからである。
しかしながら文字の大小が違い、独特の美感を表した書体として康有為<広芸舟双楫>が「端朴若古仏之容」と高い評価をし、(端荘素朴で、古い仏像の容貌に見える)漢字の変化、書道及び少数民族史の研究に極めて重要な資料で、勿論、中国では重要文化財の一つ。
碑は現在雲南省曲靖市の曲靖第一中学校内に厳重に保存されている。
たくさんの拓本を扱っております。
最終更新日:2010年3月15日
