石門頌

拓本・法帖

石門頌について語る時、先ず当時の状況からお話しなければなりません。


今から2000年ほど前の後漢時代,長安から蜀の中心地成都に行く為には,険しい秦嶺山脈を越えなければなりませんでした。


主なルートは四本ほどあり,その内の一つが褒斜道(ほうやどう)と呼ばれる道でした。褒斜道は眉県から秦嶺を越え,褒水という河に沿って漢中に至るもので,長さは約235キロに及んでいます。褒斜道という名前の由来はこの道が褒水沿いの道筋であり,秦嶺を分水嶺として南側を褒谷,北側を斜谷といった為、それらを合わせて名付けられた物です。


とにかく想像を絶する険しい道だったらしく,断崖絶壁のところには岩に孔をあけて横に桁を差し込み,それを下から柱で支え,その上に板を渡して道としたいわゆる「桟道」をつけたりトンネルを穿ったりして道を通さねばなりませんでした。


ところがこれほどの苦労を重ねて開通させたこの褒斜道でしたが,107年には異民族である西羌の侵略によって壊されてしまいました。しかしこれでは不便極まりないというので,当時司隷校尉の官職にあった楊孟文が何とか再開するように皇帝に再三奏上した結果,125年にようやく皇帝の裁可が下り,褒斜道は再び開通したのでした。

 

その後,148年に至って,漢中大守であった王升がかつての楊孟文の功績を称えて刻したのがこの「石門頌」なのです。


“石門”というのは褒斜道の南端,漢中市に近い所にある長さ15メートルほどのトンネルです。石門頌はこの石門の洞内の西側の壁のほぼ中央部に刻されていました。1973年この地にダムができた為に,石門は湖の底に水没してしまい,石門頌が刻されたままの状態ではもはや見ることができなくなってしまっているからです。

 

ダム工事に伴い,石門頌など洞内に刻されていた著名な石刻は崖壁から削り取られ,現在では漢中市博物館に展示されているのです。
「石門頌」は「郙閣頌」,「西狭頌」と共に“三頌”とも言われ、漢隷の珍品です。

 

 

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最終更新日:2010年3月24日