宋 岳飛書前出師表

拓本・法帖

<前後出師表>とは諸葛亮が,劉備没後、魏を討つため出陣するにあたり、後主劉禅に奉った前後2回の上奏文。「千古の絶唱」と称された。

 

日本でも有名ですが諸葛亮の人物に関して
三国時代、蜀漢の臣相。字は孔明。山東瑯牙の人。

 

劉備の三顧の知遇に感激、臣事して蜀漢を確立した。劉備没後、その子劉禅をよく補佐し、有名な出師表(すいしのひょう)を奉った。五丈原で、魏軍と対陣中に病死。(181-234)

 

諸葛亮 出師の表

 

有名な赤壁の戦いのあと、劉備は蜀を建国するのは有名な話である。劉備の死後から話を進めたい。

孔明が劉備の柩を守って永安から成都に帰ったのは、章武三年(二二三)五月のことである。
孔明はまず劉備の遺児劉禅、時に十七歳を即位させた。

 劉禅の即位にともない、孔明は武郷侯に封ぜられ、幕府(丞相府)を開いて政務をみる特権をあたえられ、翌年には益州の牧(長官)を兼ねて、国事の決裁はすべて彼の手を経ることになった。
しかしながら劉備の死にともなって南中の諸郡があいついで謀叛した。南中の謀反を孔明自ら出向いて鎮圧する。「七擒七放」の故事は有名である。

 

諸葛亮 出師の表


 孔明の当初からの中原回復の戦略は、すでにたびたび述べてきたように蜀と荊州の二方面から衝くというものであったが、荊州を失ったうえは、蜀からの北伐の線しかなくなった。夷陵の敗戦後の呉との国交回復も南中平定作戦もすべてそのための準備であったが、南中平定作戦の結果、軍需物資が上納されるようにな。、国家はこれによって豊かになったので、軍勢を調練し、大々的攻勢に出る態勢をととのえた。
 それにしても、中国大陸の北半部に強大な勢力を築いている魏が相手である。おいそれと戦いを仕掛けることはできない。しかも険しい山地にかこまれ、守るに易く攻めるに難い葛は、中原へ討ってでようとすれば糧株の補給も容易ではない。必勝を期し、短期決戦を前提として出撃するには、相手の油断を衝かねばならない。孔明は準備をととのえながら、その時期を待った。
二二六年五月、魏では文帝曹丕が死に、子の曹叡(魏の明帝)が立った。曹叡はこのとき二十二歳で、曹丕の遺詔により曹真・陳群・司馬懿が補佐することになった。
呉の孫権はこの機をとらえて、六月、荊州の江夏と襄陽を攻めたが、ともに魏の守将撃退された。
孔明はこのような東方の動きを目にしながら、北伐軍をひきいて漢中に移った。二二七年三月のことである。
このとき、後主劉禅はまだ二十歳、政治向きのことはすべて孔明にまかせられていたので、孔明は出発に先立ち、劉禅にたいして出陣に際しての上奏文、いわゆる「出師の表」を奉呈した。

 

諸葛亮 出師の表


先帝創業未だ半ばならずして、中道に崩殂す。今天下三分し、
益州疲弊す。此れ誠に危急存亡の秋なり。然れども侍衛の臣、内に懈らず、忠志の士、身を外に忘るるは、蓋し先帝の殊遇を追いて、之れを陛下に報いんと欲するなり。誠に宜しく聖聴を開帳し、以て先帝の遺徳を光やかし、志士の気を恢弘すべし。宜しく妄りに自ら非薄し、喩えを引き義を失い、以て忠諌の路を塞ぐべからざるなり。

 

(先帝におかれては、天下統一の大事業の半ばでおかくれになりました。いま、天下は漢(蜀)・魏・呉の三国に分裂するなかで、わが益州(蜀)の国力は衰えはて、存続できるかどうかの瀬戸際にあると申せます。しかるに、内にあっては文官たちが政務に励み、外においては武官たちが死を賭して働いているのは、ひとえに先帝からこうむったご恩顧を、陛下にお返ししょうとしているからにほかなりません。よって陛下におかれては臣下の進言によく耳を傾けられ、先帝のご遺徳を輝かせて、
心ある臣下たちを励まされるべきであり、軽薄な言動をもって、忠臣の諌言の道を塞ぐようなことはすべきではありません)

 

諸葛亮 出師の表

 

 宮中府中、倶に一体たり、贓否を陟罰するに、宜しく異同あるべからず。若し姦を作し科を犯し、及び忠善をなす者あらば、宜しく有司に付して、其の刑賞を論じ、以て陛下平明の理を昭らかにすべし。宜しく偏私して内外をして法を異にせしむべからざるなり。
(宮中と朝廷は一体であり、賞罰を行うのに、不公平なことがあってはなりません。法を犯した者・忠義の行いのあった者があれば、それぞれの役所に命じて、適当な賞罰を行わせて、もって陛下の厳正公平なことを天下に知らせるべきであり、私情をもって法を曲げるようなことがあってはなりません)

 

諸葛亮 出師の表

 

 孔明は冒頭で、年少の劉禅に噛んで含め亙ように皇帝の心得を説き、ついで、北伐中の留守を委ねた陳震・費禕らについて、その性向や長所などを詳しく説明したあと、
賢臣を親し親しみ、小人を遠ざくるは、此れ先漢の興隆せしゆえんなり。小人を親しみ、賢人を遠ざくるは、此れ後漢の傾頽せしゆえんなり。先帝在りし時、毎に臣と此の事を論じ、未だ嘗て桓・霊に嘆息痛恨せずんばあらざるなり。
侍中・尚書・長史・参軍は、此れ悉く貞良死節の臣なり。願わくは陛下之を親しみ之を信ぜよ。
則わち漠室の隆、日を計りて待つべきなり。
(賢臣を重用し、つまらぬ者を遠ざけたのが、前漢興隆のゆえんであり、逆につまらぬ者を重用し、賢臣を遠ざけたのが、後漢衰退の原因であります。先帝ご在世のみぎりには、おりあるごとにわたくしとこのことを論じられ、そのたび小人を重用して国を衰退に導いた桓・霊二帝のために痛恨し嘆息したものであります。
先に挙げた陳震らはすべて誠実で忠義な者どもであります。彼らを信頼し、重用されれば、わが漢朝の興隆は疑いありません)

 

諸葛亮 出師の表

 

 と、かさねて帝王学を説いてから、みずからのことに言及し、北伐の決意を述べるが、後に「三顧の礼」の出典となるのが、このくだりである。

 臣は本布衣、躬ずから南陽に耕す。苛も性命を乱世に全うし、聞達を諸侯に求めず、先帝、臣の卑鄙なるを以てせず、猥りに自ら柾屈し三たび臣を草盧の中に顧りみ、臣に諮るに当世の事を以てす。是れに由り感激し、遂に先帝に許すに駆馳を以てす。後に傾覆に値い、任を敗軍の際に受け、命を危難の間に奉ず。爾来二十有一年なり。
(わたくしはもともと一介の平民で、南陽で畑仕事をしていた者です。この乱世に生をうけ、一生を無事で過すことができればなによりと思い、諸侯の間で名を知られるようになろうなどとは考えでもおりませんでした。しかるに先帝におかれては、わたくしごとき者のために、わざわざ三度までも茅屋をお訪ねくださり、天下の形勢についてご下問くださいました。わたくしはこれに感激し、先帝にお仕えすることを誓ったのです。その後、荊州陥落と当陽での敗戦という切迫した事態のなかで軍師の大任を拝命して以来、早くも二十一年になります)

 

諸葛亮 出師の表

 

 先帝は臣の謹慎なるを知る。後に崩ずるに臨みて、臣に寄するに大事を以てす。命を受けて以来、夙夜憂歎し、託付の効あらずして、以て先帝の明を傷なわんことを恐る。故に五月瀘を渡り、深く不毛に入る。今南方巳に定まり。、兵甲巳に足る。当に三軍を奨率し、北のかた中原を定むべし。庶わくば駑鈍を竭くし、姦凶を攘除し、漢室を輿復し、旧都に還さん。此れ臣の先帝に報いて、陛下に忠なるゆえんの職分なり。
(先帝はわたくしが慎み深いのをよくご承知で、崩御されるとき、わたくしに天下平定の大事業をなしとげるようお託しになりました。以来、そのご遺命にたがわぬよう日夜心をくだいてまいりました。それで、五月、瀘水をわたって瘴癘の地に遠征いたしました。現在、南方の平定も終わり、軍備も充実したうえは、まさに三軍をひきいて中原を平定いたすべきときであります。微力を尽くし、敵を討ち滅ぼし、漢皇室を再興して旧都(洛陽)に帰還したく、これこそ先帝のご恩に報い、陛下に忠を尽くすためになすべきわたくしの本分であります)

 

諸葛亮 出師の表

 

以上のように、中原の回復と漠室の再興は孔明にとつての至上命令であった。

臣、恩を受け感激に勝えず、今当に遠く離るべし。表に臨みで(上奏文を前にして)涕零ち、言う所を知らず。

彼はこのように涙ながらに上奏文をしたためて、劉禅に奉呈したあと、漢中へ向かったのである。

 

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最終更新日:2010年3月18日