宋 岳飛書後出師表

<前後出師表>とは諸葛亮が,劉備没後、魏を討つため出陣するにあたり、後主劉禅に奉った前後2回の上奏文。「千古の絶唱」と称された。
日本でも有名ですが諸葛亮の人物に関して
三国時代、蜀漢の臣相。字は孔明。山東瑯牙の人。
劉備の三顧の知遇に感激、臣事して蜀漢を確立した。劉備没後、その子劉禅をよく補佐し、有名な出師表(すいしのひょう)を奉った。五丈原で、魏軍と対陣中に病死。(181-234)

第一次北伐は「泣いて馬謖を斬る」で有名な「街亭の戦い」で敗れ、失敗に終わる。
その敗北の善後処置をおえると、その秋のうちには早くも軍勢の再編成をおえて、冬には第二次の北伐を決行した。この間わずか二、三カ月。孔明がこのように出兵を急いだのは、揚州で魏が呉に大敗するという事件があって、関中の軍備が手薄になったと見たからであった。
このときの北伐に当たっては、先の街亭敗戦のショックがまだおさまらずにいた朝臣のあいだから疑義が出された。これに対して孔明が北伐の必要性を陳述した上奏文というのが、「後出師の表」である。

先帝、漢・賊の両立せず、王業の偏安せざるを慮り、故に臣に託すに賊を討つを以てす。先帝の明を以て臣の才を量るに、故より臣の賊を伐つの才弱く敵の彊きを知れり。然れども賊を伐たざれば、王業また亡ぶ。ただ坐して亡ぶるを待つは、これを伐つと孰与ぞ。この故に臣に託して疑わざりき。
(先帝(劉備)におかれては、漢皇室と賊(魏)とが両立することはできず、天下統一の大事業達成のためには西南にいつまでも安住しているべきではないと考えられ、わたくしに賊徒討伐を委託されました。英明なる先帝はわたくしの才能をはかられ、わたくしに強力な賊を討つに足る才能のないことをつとにご承知でありましたが、賊を討たない限り、天下統一の大業も成らず、座して滅亡を待つよりは、賊を討つに如くはないので、ためらうことなくわたくしに賊徒討伐を委任されたのであります)

臣、命を受けし日より、寝ぬるに席を安んぜず、食するも味を甘しとせず。北征を思惟するに、宜しく先ず南に入るべし。故に五月瀘を渡り、深く不毛に入り、日をあわせて食う。臣、自ら惜しまざるにあらず。王業は萄都に偏安するを得ざるを顧み、故に危難を冒して以て先帝の達意を奉ず。而るに議する者謂いて計にあらずと為す。今、賊たまたま西に疲れ、また東に務む。兵法に労に乗ずと、これ進趨の時なり。謹みてその事を陳ぶるに左の如し。
(わたくしは先帝の遺命をお受けして以来、寝食を忘れて、北伐の計画を煉ってまいりましたが、それには先ず南方を平定すべきであると、五月、瀘水を渡って深く不毛の地(瘴癘の地)に入り、一日の兵糧を二日で食べるという苦労をいたしました。わたくしは決して自らの生命を粗末にするものではありません、天下統一の大事業を完成するためには成都のような奥地に安住しているべきではないと考えたからで、それ故に危険を冒してまで先帝の御遺命を遂行しようとしているのにほかなりません。しかるに、これは良策ではないと批判する者がおります。今、賊は西方三郡の平定に奔走し、東方では呉に大軍を出動させております。兵法にも「敵の疲れたところを討て」とありますように、今こそ進んで攻撃に出るべきときであります。謹んでその理由を申し述べれば、次のとおりであります)

高帝、明は日月に並び、謀臣は淵探なり。然れども険を渉り、創を被り、危うくして
安し。今、陛下はいまだ高帝に及ばず、謀臣は艮・平に如かず、而るに長計を以て勝を取り、坐して天下を定めんと欲す。これ臣の未だ解せざるの一なり。
((漢の)高祖皇帝はそのご英明さは日月のごとく、多くの知謀の士を抱えておられましたが、それでもなお危険を冒し、矢玉を浴び、しかるのちようやく安泰を手にされたのです。今、陛下は高祖皇帝におよばず、幕僚たちも張良・陳平(漢初の功臣)におよびません。しかるに、いたずらに持久策をとり、座して勝利を手に入れようと考えておられる。これが、わたくしが解しかねる第一の点です。)

劉繇・王朗各々州郡に拠り、安を論じて計を言い、動もすれば聖人を引き、群疑腹に満ち、衆難胸に塞がり、今歳戦わず、明年征せず、孫策をして坐ながらにして大に、遂に江東をあわせしむ。これ臣の未だ解せざるの二なり。
(劉繇(後漢末の揚州刺史)・王朗(後漢末の会稽郡太守)はそれぞれおのれの州郡により、いたずらに安定策を論議するばかりで、ややもすれば(時代おくれの)聖人の言を引用し、家臣たちを疑心暗鬼におちいらせ、連年なんの処置もとらぬまま、孫策を強大にして、ついに江東を併呑させてしまいました。これが、わたくしが解しかねている第二の点です)

曹操の智計、人に殊絶し、その兵を用うるや、孫・呉に髣髴たり。然れども南陽に困しみ、鳥巣に険うく、き連に危うく、黎陽に偪られ、幾ど北山に敗れ、殆ど潼関に死せんとして、然る後一時を偽定するのみ。況んや臣の才弱く、商も危うからざるを以てこれを定めんと欲するをや。これ臣の解せざるの三なり。
(曹操の知謀は抜群で、その用兵はまこと孫子・呉子もかくやというほど。その曹操にして南陽(一九七)・烏巣(二〇〇)・き連(曹操はき連山に出陣したことはなく、二〇七年の鮮卑族平定作戦をいったものではないかといわれる)・黎陽(二〇三)・北山(二一九)・潼関(二一一)などの戦役では九死に一生の危い日にあい、よう
やく一時の安定を得ているようなありさまです。ましてわたくしのような才薄い者が、何の危険も冒さずに天下統一という大業をはたすことができるものでしょうか。これが、わたくしが解しかねている第三の点です。)

曹操五たび昌豨を攻むれども下さず、四たび巣湖を越ゆれども成らず、李服を任用すれども李服これを図り、夏侯に委ぬれども夏侯敗亡す。先帝毎に操を称して能と為すも、猶おこの失あり、況んや臣の駑下なる、何んぞ能く必ずしも勝たんや。これ臣の未だ解せざるの四なり。
(曹操は五度も昌覇(昌豨。最後に干禁に平定される)を討ってついに下すことができず、四度巣湖以南に攻めこみ(孫権と戦い)ながら遂に同地を占拠することができず、李服(二〇〇年、董承とともに曹操暗殺を企んで殺された偏将軍王服のことか)を起用しながらその李服に背かれ、夏侯淵に漢中守備の重任を託したにもかかわらず破られ(二一九年、劉備に破られる)ました。先帝はつねづね曹操を有能であるといっておられましたが、その曹操にしてこのような失敗をおかしております。まして非才のわたくしごとき、どうして百戦百勝などできましょうか。これが、わたくしが解しかねている第四の点です)

臣、漢中に到りしより、中間朞年のみ。然るに趙雲・陽ぐん・馬玉・閻芝・丁立・白寿・劉ごう・鄧鋼等、及び曲長・屯将七十余人、突将・無前・賨叟・青羌・散騎・武騎一千余人を喪う。これ皆、数十年の内、糾合せし所の四方の精鋭にて、一州の有する所にあらず。もし復数年ならば、すなわち三分の二を損せん。当に何を以て敵を図かるべきや。これ、臣の未だ解せざるの五なり。
(わたくしが漢中に駐屯するようになってまだわずか一年というのに、すでに趙雲・陽ぐん・馬玉・閻芝・丁立・白寿・劉ごう・鄧鋼ら大将たち、下級将校七十余人、そして突将・無前など突撃部隊、賨叟青羌など夷人部隊、散騎・武騎など騎兵部隊の兵士一千余人を失ってしまいました。彼らはすべてこの数十年の間に四方から集めた精鋭で、益州一州のみで集められるものではありません。もしこのまま数年もすれば、将兵の損失は三分の二に達するでしょう。これで一体どうして敵に当たるこ
とができるでしょうか。これが、わたくしが解しかねている第五の点です)

臣、民窮して兵疲れ、而も事息むべからず。事息むべからざれば、すなわち住まると行くと、労費正に等し。而るに今これを図るに及ばずして、一州の地を以て賊と持久せんと欲す。これ臣の未だ解せざるの六なり。
(今、民は疲弊し、兵は疲労しておりますが、賊との交戦を中止することはできません。そうである上は、攻撃するにせよ防御するにせよ、その労力と費用は同様です。しかるに、今、北伐を敢行してすすんで勝ちをもとめようとせず、益州一州をもって魏と持久戦をかまえようとされるこれが、わたくしが解しかねている第六の点です)

それ平らげ難きは事なり。昔、先帝、軍を楚に敗る。この時にあたり、曹操、手を拊ちて天下以て定まれりと謂う。然る後、先帝、東は呉越を連ね、西は巴蜀を取り、兵を挙げて北征し、夏侯、首を授く。これ操の失計にして漢の事将に成らんとするなり。然る後、呉更に盟に違い、関羽は毀敗し、し帰に蹉跌し、曹丕は帝を称す。凡そ事かくのごとく、逆見し難し。臣、鞠躬尽力し、死して後巳まん。成敗利鈍に至りては、臣の明の能く逆覩する所にあらざるなり。
(もっとも予測しがたいのは、天下の情勢の変化です。かつて先帝は、荊州の当陽で大敗を喫しました。そのとき曹操は、これで天下平定はなったと、手を打って喜んだものでした。しかし、現実には、先帝は東は呉と結び、西は巴蜀を攻略し、漢中平定の軍をおこして夏侯淵を斬りました。曹操の目算が狂い、漢朝による天下統一も目前かと思われました。ところが、その後、呉が同盟の約束を破ったため、関羽が殺害され、先帝もし帰で思わぬ挫折に遭遇され、曹丕は帝位に即くに至りました。天下の大勢というものは、ことほどさように計り難いものでありますが、わたくしはただ死力を尽くし、北伐を敢行する所存であります。成否のほどは、わたくしごときのよく計りうるものではありません)

この後出師の表のあと、孔明は北伐するわけだが、この北伐は孔明が多忙を極め、心身ともに疲弊した。そして五丈原で病没する。そしてこの時「死せる孔明、生ける仲達を走らす」の故事が生まれる。
後に、南宋の武将岳飛が草書で前・後 出師の表を書き、刻されて五丈原に碑がおかれている。
岳飛の人物に関して
南宋の武将。字は鵬挙。河南湯陰の人。高宗に仕え、江ワイの賊を討伐し、「精忠岳飛」と記した旗を受けた。
金軍を破って功をたてたが、宰相秦檜に謗せられ獄死。武穆、忠武の贈り名を受け、ガク王に追封。著「岳忠武王集」。(1103-1141)
岳飛は草書で前後出師表を書き、金軍を討伐する決心を表した。宋明草書の典型的な書作の一つです。観賞しながら、漢文、草書を深く勉強するのに適しています。
当店ではたくさんの拓本を扱っております。
最終更新日:2010年3月18日
