関羽の心情を伝える 拓本 関帝詩竹

■劉備、関羽、張飛の義兄弟の契りを思わせる作品。

三国志で高名な関羽は劉備とは義兄弟。劉備が孔明を迎える前、劉備軍は曹操軍に大敗する。曹操に関羽は追い詰められて、曹操から降伏の説得を受ける。
関羽は条件として「漢の皇帝に降るのであって曹操に対してではないこと」、「劉備の夫人たちには日々の支給をし、指一本触れないことはおろか、門内にも立入禁止にすること」、「劉備の居所がわかりしだい駆けつけてゆくことを許可すること」 の三条件を提示し、張達の口ぞえもあって、曹操はこれを許した。


■度重なる曹操の厚遇にも心は動かさない。

献帝に面会して偏将軍の位を与えられ、金銀財宝や美女に目もくれず、曹操が錦の戦袍を贈ると、古くなった戦袍の下に着こんでみせて、「これは兄者(劉備)から賜ったものだからしと劉備の顔を立てる。関羽は繋が長く、それを包む紗の袋も曹操に贈られ、献帝が髭をはめて「美髭公」と言ったので、それが通称となった。さらに呂布の乗っていた赤鬼馬を下されると、「これで兄者のもとへすぐに駆けつけられる」と喜び、曹操は後悔す
る。

 

■こんな状況の下、作った詩がこの作品です。

不謝東君意,丹青獨立名,莫嫌孤葉淡,終久不彫零」
(東君(曹操)の好意に感謝はしないが、歴史に名を残したいと思っている。自分の力は一枚の葉っぱのように弱いが、永遠に枯れることはない。)

曹操の元にいた時の関羽が、劉備に自分の変わらぬ忠誠心を伝えるために書いた詩です。
こんな内容の手紙をそのまま劉備に送るわけにもいかず、関羽はそれを竹の絵に隠しました。

この詩も石碑に刻されています。

この刻帖を
よく見ると、竹の葉が文字になっているのが分かります。

 

■それから曹操の元で手柄をたて、五関に六将を斬って、劉備の元へかけつける。

各地の武将を斬って、突破したのち、

劉備が袁紹もとを脱して汝南へ行ったことをきき、そちらへ向かおうとするところへ、またも軍がくる。それは夏侯惇で、部将を斬られたとあっては簡単におさまるはずはなかったが、張遼や使者たちが次々に駆けつけて曹操の公文を届けてきた。夏侯惇は、
「秦琪は蔡陽の甥で、自分があずかっていたのだ」と言うが、この点は張遼が処理を約束し、一応の落着をみた。

数日後、雨に降られ、郭常の屋敷に宿った。赤兎馬を盗もうとした郭常のドラ息子を諭し、そこで山賊の頭だった周倉に会い、周倉は同行することになる。さらにまた数日後、徐州で離れ離れになった張飛と古城で対面するが、張飛は「曹操に降った裏切
者め」と怒って、なかなか信用しない。そこへ、曹操の「関羽を行かしてやれ」との意向に従わず、のため何か役を与えて気持をそらそうと汝南の劉辟の討伐を命ぜられていた蔡陽が偶然やってくる。関羽は張飛の目の前で蔡陽を斬って誤解を解いた。そこへ糜竺・糜芳が合流する。
汝南へ行き、劉辟・龔都に劉備の居所を尋ねるが、再び袁紹のもとに身を寄せたことを知り、孫乾を冀州に派遣し、関羽は見送って関定という老人の家に泊る。劉備は、劉表を味方につけるための説得に行くと言って袁紹のもとを去る。ついに劉備は関羽と古城で会い、関定の次男開平を関羽の養子にする仲立ちをし、さらにそこで趙雲にもめぐり会え、一同、再会を喜びあった