世に三筆と言われる空海が最澄にあてた手紙「風信帖」

 

■風信帖は、空海が最澄にあてた手紙です。


風信帖は、空海が最澄にあてた手紙三通をあわせたものである。書き出しに「風信雲書……」とあることから「風信帖」と呼ばれている。現在、京都の教王護国寺(東寺) に蔵され、国宝に指定されている。一般には、三通をあわせて「風信帖」といっているが、第一通を「風信帖」、第二通は書き出しに「忽披柾書…」とあるので「忽披帖」、第三通は書き出しに「忽恵書札…」とあることから「忽恵帖」とそれぞれ区別していうこともある。


■豊臣秀次もこの書を愛しました。


風信帖はもともと五通あったが、盗難にあったり、古筆愛好家として名高い関白豊臣秀次の懇望によって割譲されたりで二通が失われたということが跋文に記されている。風信帖の三通の消息は、各々異なった妙趣を持ち、空海の面目躍如たるものがある。すなわち、第一通は、最澄の宋音に答え、共に仏法を研究するために会見したい旨を嘱したもので、三通のうち最も謹厳な書きぶりで、すみずみまで神経の行き届いた、風格のにじみでた書である。
第二通は、最澄と冬嗣の消息を受けとったが、法儀が迫っていて失礼することを詫びたものである。第一通の円い立体感のある線に比べ、やや鋒先が出て鋭く険しい印象を与える。三通の中では最も遅筆のようではあるが、みなぎる精気を感じさせるものである。
第三通は、最澄からの経典の借用の申し入れに対して、しばらく待ってほしい旨を述べたもので、三通中最も多く草書が使用され、スピード感に溢れた書で、瀟酒で明るくとどこおりのないものであるが、一字一字の構造性が少しもくずれていないのはさすがである。


■根底にあるものは、王義之・王献之です。


このように、風信帖の書風は三通とも異なるが、その根底にあるものは、二王(王義之・王献之) の書であり、それに当時唐土で流行していた顔真卿の風であるといってよいだろう。先にも述べたように、入唐以前の空海は、幼少より熱心に古人の書を学んだようであるが、当時の日本の書道の実情から察すると、その対象はおそらく二王のものが中心であったろうし、在唐中は、二王は勿論、当時流行していた顔美郷の風や徐浩、李北海などの風も精力的に学んだのではなかろうか。ともあれ王義之の書を基礎とし、それらの風を混然一体自らの血肉と化しているところに彼の天賦の才が窺われるのである。
風信帖は、率意の書とよくいわれるが、天合、真言両宗を代表する高僧の間にかわされた消息であるから、意を用い、礼が尽されたのは当然のことであろう。しかし、手紙といういわば率意の書であるからこそ空海の底知れぬ人間としての深さが、より純粋に生の形で表現されているように思われる。

 

 

 

■空海の書作品を通覧してみます。

 

ところで、空海の書作品を通覧すると、次のように大きく三つの群に分類することができる。

第一は、空海の青年時代(入唐以前) の書で、終始丁寧に書かれた謹厳な書風のもので、聾瞽指いきなどがそれにあたる。若年の書であるせいか、書法をよく守った緊密な結体の中にも、筆力は強く清新な美しきにあふれている。
第二は、空海の壮年の書で、入唐した三十一才頃から四十才台のものである。本書で取り上げている風信帖、灌頂記、それに三十帖策子などがこれにあたり、当時の中国で流行していた書風をよく取り入れた、すこぶる完成度の高い雄渾な書である。
第三は、晩年に書かれたもので、崔子玉座右銘などがそれにあたる。後に大師流と呼ばれるもとになったと思われるもので、線の抑揚が目立つ奔放で神秘性に富んだ書風である。


■晩年の書想像できないくらい大きな変貌をとげています。


空海の晩年の書は、青年時代の書からはとても想像できないくらい大きな変貌をとげている。その変容ぶりは、まことに驚くばかりで、あらためて空海の古典の消化のしかた、また、創造力の偉大さに感心させられる。

 

■空海の生い立ち・遣唐使。


弘法大師の名で親しまれている空海は、宝亀五年(七七四)讃岐国(香川県)屏風ケで生まれた。大伴氏の流れを汲み、早くから讃岐国造をしていた佐伯氏に生まれた。いわば地方豪族の子である。幼少より叔父の阿刀大足について学問を学んだ。神童ともいうべき才能の持ち主であった空海は、一族の大きな期待を担って十八才で大学に入学したが、まもなく儒学を捨てて、仏道を求めて自ら大学を退学した。退学後の空海は、各地で厳しい仏教の修業をつんでいた。その修業は既に当時の仏教界の一部で認められ、遣唐使に随って留学する留学僧に推薦されている。
延麿二十三年(八〇四)三十一才の時、空海は遣唐使に随って留学僧として入唐したこの時、最澄、橘逸勢も一緒に入唐している。当時既に僧として重んぜられ、深い研究も積んでいた最澄は、還学生として入唐したので、都長安には入らず翌年に帰国した。留学僧空海の留学期間は二十年であり、留学生の橘逸勢の留学期間もやはり二十年であったようであるが、当時の国内情勢や二十年もの長い間唐にとどまれば、日本での活動がほとんどできないことなどから、在唐わずか二年で二人とも帰国した。しかし、この短い在唐期間中に、空海は精力的にいろいろなことを吸収した。長安では青龍寺の慧果和尚に学び、真言密教の秘奥を受け、さらに書、詩文をはじめあらゆる学問に心血を注ぎ、数えきれないほどの収穫を得て帰国したのである。
帰国後は、高雄山神護寺、高野山金剛峯寺などにあって密教の興隆につとめ、真言宗開祖となった。また、密教文化の発展にも大きな役割を果し、さらには益田池碑などにも見られるように、土木工事にまで貢献するなど、その活躍は非常に幅広く目覚ましいものであった。承和二年(八三五)六十三才で入寂、延喜二十一年(九二一)醍醐天皇より弘法大師の諡号を賜った。