名を天下に知らしめた漢詩 寒山寺 楓橋夜泊

 

■詩原文


月落烏啼霜満天、  月(つき)落(お)ち烏(からす)啼(な)きて霜(しも)天(てん)に満(み)つ
江楓漁火対愁眠。  江楓(こうふう)漁火(ぎょか)愁眠(しゅうみん)に対(たい)す
姑蘇城外寒山寺、  姑蘇(こそ)城外(じょうがい)の寒山寺(かんざんじ)
夜半鐘聲到客船。  夜半(やはん)の鐘声(しょうせい)客船(かくせん)に到(いた)る

 

■詩の意味です。旅愁を誘います。


月は沈み、カラスが鳴いて、夜空に霜気が満ちている。川辺の紅葉した楓樹、そして漁船のいさり火が、旅愁で眠れないわたしの目に映る。


ふと姑蘇城外の寒山寺からボーン、ボーンと、真夜中を告げる鐘の音がわたしの舟にまで聞こえてきた。
「霜満天」は、霜が降りそうな寒気が辺りに満ちていること。古来中国では、霜や露は天から地上に降るものと考えられてきました。


「江楓」「漁火」は、いずれも暗闇に赤々とした色彩を添えています。「愁眠」は旅愁のためなかなか寝付けず、うつらうつらとまどろむさまをいいます。


「姑蘇城外」は、蘇州の町はずれ。「姑蘇」は、蘇州の古名。「城外」は、町を囲む城壁の外をいいます。「寒山寺」は、蘇州の西郊、楓橋の東南二百メートルにある寺の名。「夜半」は、真夜中。「客船」は、旅人である作者の張継(ちょうけい)が乗っている舟を指します。舟中で浅い眠りにうとうとしているところへ鐘の音が響いてきます。随分と時間がたったと思いきや、ああ、まだ夜中であったかと、やり過ごしようのない秋の夜長に旅愁を深めています。


「楓橋夜泊」は、旅愁を歌った名作として愛誦されている七言絶句で、寒山寺の名を天下に知らしめた詩でもあります。「楓橋」は、蘇州(江蘇省)の西郊にある橋の名。運河に架けられた石橋です。蘇州は水郷です。城内城外のいたるところに水路が通じています。「夜泊」は、夜間舟を岸につないで宿ること。当時、日没後は城門が閉まって城内に入れないので、城外の水路に停泊して夜を明かします。

 

作者の張継はこのとき蘇州の西のはずれの楓橋に船をとめて一夜をあかしたのですが、それは大運河の船旅の途中だったのでしょう。ただし張継は伝記がよくわからない人で、いつ、どういう事情で旅をしていたかはわかっておりません。しかしそうした前後の事情などを超越して、この詩は旅愁を詠じた名作として愛唱されてきました。

 

■作者は謎の多い人物ですがこの詩のみで後世に名を残します。


張継は、字は懿孫、生没年未詳。中唐の詩人です。天宝十二載(753)の進士で、大暦年間に洪州(江西省)の塩鉄判官(財務担当の属官)となり、検校祠部員外郎(札制を掌る官庁の散官)の官位を授かっています。古今の絶唱「楓橋夜泊」一首によって後世に名を残しています。

■寒山寺はこの詩で大晦日の除夜の鐘を中心に日本人がたくさん訪れます。


寒山寺は江南屈指の観光名所。日本からも毎年大晦日になると、寒山寺で除夜の鐘をつこうと多くの観光客が訪れます。寒山寺を天下に知れ渡る名刹たらしめたのは、ひとえに「楓橋夜泊」一首によるものですが、右の説に従えば、実は寒山寺と張継の詩はまったく無関係であったということになります。しかしながら、この詩が蘇州の寒山寺を歌ったものとして読まれてきた享受の歴史の長さは揺るがしがたいものがあります。考証の信憑性の高さを以てしても、この詩の文学作品として風趣を減ずるものではなく、また寒山寺の詩跡としての価値をくつがえすものでもないでしょう。

 

楓橋」は蘇州の西の郊外にある橋の名、楓橋鎮という町名にもなっております。
南の杭州から北上してきた江南大運河は、蘇州の市街をとりかこむ城壁の、南の門の手前でぐっと西に迂回し、さらに北上して行きます。そして市内、中国流にいえば城内には枝わかれした小運河がいくつも通じております。
日本の国道は、以前は各都市の中心部を通りぬけておりましたが、近ごろはたいてい市街地を迂回するバイパスのほうがメインルートになっております。大運河ははじめから、つまり紀元六世紀のころからすでにそのような構造に設計されていたのです。

 

「姑蘇城」はさきにおはなしした呉王夫差の姑蘇台にちなむ蘇州の雅名、蘇州の西の郊外(城外)にある寒山寺は、中国観光のめだまのひとつになっておりますから、おいでになったかたもすくなくないことでしょう。毎年十二月には、寒山寺で除夜の鐘を聴くツアーが催されているようです。

 

■この詩は日本でも江戸時代から大流行しています。

 

日本でよく読まれた唐詩の選集といえば、「三体詩」「唐詩選」という二つの詩集が挙げられますが、この二つの詩集は詩の選びかたが全然ちがっていて、重複する詩はわずかしかありません。この「楓橋夜泊」の詩は、「三体詩」と「唐詩選」のどちらにもみえる数すくない詩のひとつなので、それだけに日本人には親しいものとなったのです。しかもどちらの詩集にも張継はこの一首だけしか採録されておりません。ほかに作品がないことはないのですが、数もすくないし、有名な詩はひとつもないといってもよいでしょう。ただ一首の詩によって後世に名を残す詩人というものがいるものですが、張継もそのひとりといえます。

 

さて「唐詩選」という本は、江戸時代の中ごろ服部南郭という学者が校訂した本が江戸で出版され、大流行することになるのですが、その南郭先生の講義の筆録と称する本が、死後しばらくして出版され、「唐詩選」の流行に拍車をかけることになります。

 

「唐詩選」の南郭校訂本の出版は享保九年(一七二七年)のことですが、それ以前にもこの詩は、早くから流行していた「三体詩」によって読まれていました。芭蕉の門人、いわゆる蕉門十哲のひとりで、とくに俳文の名手といわれた森川許六に「和訓三体詩」という本があることははじめに触れましたが、これはふつうの注釈とはちがって、「三体詩」の七言絶句のひとつひとつに、その詩から想を発する俳文を自由自在にしるしたもので、正徳五年(一七一五年)、つまり「唐詩選」がはやり出すよりも前に出版されております。この本の「楓橋夜泊」のところを紹介しておきましょう。

 

■女性とのやりとりを含めた面白い解釈を後世の人は付け加えています。

 

鞆の夜泊のかじ枕、室のうき寝の波の床、しおなれごろも、ひとよ妻、重ねて寝んと漕ぎよせて、のぼりくだりの舟がかり、近づきぶりにかいま見の、そら約束に待ちわぶる、門のじゃらつき、はしごのとどろき、胸つぶるおりからに、田舎わたりのわけ知らず、まかれて人にもらわるる、ただひとり寝の床寒く、月落ちかかる淡路島、生田の森のむら烏、秋の霜夜のあけかねて、あまのいさり火行きちがい、寝ざめのたばこくゆらせて、すこし晴れ行く憂き眠り、松のあらしの一の谷、須磨寺につく鐘の声、波の枕に伝い来て、舟は港をおし出しける。

 

つまり場面を瀬戸内海の舟旅にみたて、鞆の浦から室津(兵庫県御津町)にやってきたところ、船着き場といえば色里がつきもの、あがって遊ぼうとしたら、遊女にふられてひとり寝をするハメとなった、そのわびしさという筋書き、「烏」は「生田の森のむら烏」「鐘」は「須磨寺につく鐘の声」と化けており、何ともいえぬおかしみがあります。
この想定、はじめは江戸時代の俳人のしゃれかと思っておりましたが、少し調べてみると、なかなか由緒ある解釈にもとづいていることがわかりました。


「三体詩」はもともと南宋の末近く、一二五〇年ごろに編さんされたものですが、まもなく輸入され、日本でもくりかえし出版されて流行しました。鎌倉時代から室町時代にかけては、南禅寺、天龍寺、相国寺など、五山と呼ばれる禅宗の大寺院が学問の中心となり、いろいろな古典の講義がおこなわれておりました。その五山における講義の記録を「抄物」と申しますが、当時はやった「三体詩」についても抄物が何種も残っております。


■その後、時代が下ってもたくさんの人が続作を作っています。

 

張継の詩がひろく人々の愛誦するところとなってのち、歴代の詩人がつぎつぎに楓橋を訪れては続作を詠じております。その中から一首挙げておきましょう。
白髪 重ねて来る 一夢(いちむ)の中(うち)
青山(せいざん) 改めず 旧時(むかし)の容(すがた)
烏啼き 月落つ 江村(こうそん)の寺
枕をそばたてて なお聴く 半夜鐘
(宋、孫覿「再び楓橋に泊す」)  孫覿「再泊楓橋」