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■この拓本の人物は達磨大師です。

達磨はインド人である。頭から被った赤い布はターバンのそれであり、ギョロリとした大きな目は、インド・アーリア系の目なのだ。さて、その達磨、紀元五世紀頃、南インドの香至国の第三王子として産声を上げた。名を菩提多羅という。生まれつき聡明で一聞千悟したという。成長するにおよび、インド仏教第二十七祖といわれる般若多羅の弟子となり、菩提達磨と名を改める。菩提とは迷いから目覚めること、達磨とは法、すなわち真理をいう。
般若多羅に師事すること四十余年、仏法の伝承布教を許された達磨は、師の命に従って中国へと渡り、いわゆる六宗の高僧連を論破して衆徒を帰服するなどして十余年を経た。そして、海上に浮かぶこと三年、梁の武帝の普通元年(五二〇年)広州に至る。 武帝は達磨を王宮に迎えて、親しく接遇した。そして、その時に交わされたとされる次のような有名な問答がある。
「自分はこれまでに多くの寺を建て、写経をさせ、多くの僧を育ててきたが、こうしたことはどれほどの功徳になるんかいのぉ?」 と武帝が問えば、達磨はただ一言、 「無功徳」 その答えに、武帝は、 「なんでそうなるの? 教えて」 「そんなものは、所詮、煩悩の因にすぎず、影が形に添うようなもの。たとえあるとしても、実質はともなわない」 「じゃあ、真実の功徳って何なのさ?」 「無私無欲、その実体は空寂、俗世に求めて得られるべきものではない」 「ちっ、偉そうに。じゃあ、お前の悟りの第一義を言ってみい」 「廓然無聖」
この答えは、ついに武帝の理解するところとならなかった。それはたとえ仏教者といっても、俗世の帝王の信仰には限度があることを示すものであった。廓然無聖とは、広大深遠な仏法には第一義というものはないというのだが、その真意は、第一義の存在否定ではなく、そういう言葉に迷い、とらわれてはいけないという教えである。
達磨は武帝の前を辞して、さらに北の国、北魂に向かって去って行った。そして、崇山少林寺に入って、有名な面壁九年の坐禅行に専念する。達磨に師事した慧可がその法を嗣ぎ、後年へと伝承され確立された。もちろん達磨以前にも、中国では禅が行われていたしかし、達磨の禅定門が確立され、以後次第に禅の主流となった。達磨の修行こそが仏法の正しい悟りとして、仏祖釈尊の真の姿に直結するからであったとされている。そこで禅宗では、達磨を中国禅宗の第一祖とする。達磨は大通二年(五二八)に寂滅し熊耳山に葬られたという。なんと齢百五十歳だったというから驚きだ。
■達磨大師には様々な怪談があります。
伝説はこれだけではない。それは達磨が死んで三年後のことである。魏の宋雲が西城から故郷へ帰って来る途中、パミール高原の山中で、片方の履を手にした達磨にばったりと遇ったという。埋葬した墓を掘り返したところ、棺の中にはもう片方の履があるだけで、達磨の遇骨は消えてなくなっていたというから恐ろしい。
達磨に関する怪談(?)話は、我国にもある。熊耳山から雲散霧消した達磨が、なんと日本に来ていたというのである。 それは達磨と聖徳太子との邂逅譚で『元亨釈書』という文献に記されている。推古二十一年(六一三年)、太子が奈良の片岡の里で達磨に遇った。達磨は飢えた人の態で路傍に臥していた。太子はこの異人を憐み、衣食を与えた。後に側近の者を遣わして様子を探らせると、すでに息絶えていた。太子は達磨を厚く葬るが、ここからも達磨の死骸は忽然と消え失せてしまうのだ。この話は片岡の里の物語として長く後世に伝えられることになった。以上の達磨の伝記は言うまでもないことだが歴史的事実によるものではない。九世紀噴、禅宗が成立してから創作され、十一世紀頃に固定されたものだとされている。
■達磨大師は禅宗の開祖です。
さて、禅宗の本格的な日本への伝播は鎌倉時代に入ってからのことである。人宋した栄西が臨済禅を、道元が菅洞禅を伝えた。日本に導入された禅宗は、新興武士階級の気風と生活に合い、急激に仏教界に浸透して大きな発展を遂げるに至った。伝説的にせよ達磨によって禅風が形成されたとして、その教義の伝来以来、日本でも達磨を初祖と仰ぐ。達磨は中国におけると同様、篤い信仰の対象なのだ。一方、だるまは達磨の外見が誇張された俗信の呪物である。同じ信仰とは言っても、一方は深遠な教義であり、一方は現世利益に重きを置くものである。
禅宗は鎌倉時代に我国へ伝来し、江戸時代になって、庶民の間にも急速に広まっていった。この頃では、禅とは何か、また達磨大師の横顔についても少しふれてみたいと思う。
禅宗は仏心宗とも称され、その奥義は「不立文字」「以心伝心」「直示人心」「見性成仏」に要約されるという。そう言われても、我々にはなかなか難解でピンとはこない。江戸期の無学文盲の庶民たちも同様で、禅宗の坊さんが対話するのを聞いても理解できず、以来、訳のわからない問答を椰撤して、禅問答と呼ぶようになった始末だ。しかし、賢い先人たちも居た。彼らは、梵語による原意解明と漢字の解字による推理とによって禅の理解に努めてきた。
それによると、禅とは梵語『禅那』の略で、『静慮』を意味するのだという。つまり、静かに思念することであり、自己の心性を自ら悟ることである。それによって仏の心を、文字に拠ることなく心を以て心で感得するのである。
要するに文字に頼ることなく、心の修行によって自得される無住空寂な心が『直示人心』であり、その空寂な悟りを『見性成仏』とするのだそうだ。そして、達磨禅の実践的な教法は、いわゆる二人四行の名で伝えられている。二人とは理入、行入、四行は行人を四種に分けて、報怨行、随縁行、無所求行、称法行といい、理人は教説の理であり、行人は修行上の心理心境である。
■そして日本では縁起物のだるまになります。
確かに室町の頃には不倒翁が移入され、起き上がり小法師に変容して流布された。しかし、市井の一般ピープルには、小法師を達磨に見立てるほどの教養はなかっただろうし、諧謔趣味も持ちあわせてはいなかっただろう。起き上がり小法師がだるまに変身したのは、もっと時代が下ってからのことと推測される。文献的には『中古風俗志』明和元年(一七六四年)・増補版に「いったいいつの頃から起き上がり小法師は、達磨大師のお姿に変わってしまったのだろう」と記されている。また、安永六年(一七七七年)に刊行された『持遊太平記』に、達磨大師が起き上がり小法師に描かれた絵が掲載されている。このことは近藤正照著『開運だるまの生涯』に記されていて、著者はー一七六〇年頃から明和年間に江戸で初めて作られたと明言している。
江戸で生まれただるまは、いわゆる縁起物として俗信の方向に向かって展開を示し、一躍人気の焦点となり、やがて目無しだるまの出現へと結び付いたのだ。
■選挙で出てくるあのお馴染みのだるまです。
必ずといっていいほど、立候補者の横で必勝祈願の片目だるまがデンと置かれていたりする光景が連想されるのだ。この片目に墨を入れただるまは、いわゆる縁起物、祈願ものの対象として世俗信仰を集まる目無しだるまで、眼の輪郭だけを描いて、わざと点睛をしないものである。
そわそわじりじりと開票速報に耳を傾ける立候補者。有権者の支持を得るか、僥倖に恵まれるかして当選すると、満面の笑みを湛え、もう一方の眼にも黒々と塁を入れる。これで、だるまま点晴開眼でお目出たい。大勢の後援者が万歳を三唱、大喝采という定番の例のパターンとなるわけだ。
では、立候補者が落選したらどうかるのか? あまり考えたくはないが、目玉のかわりにケリを入れられるこ少は想像に難くない。閑話休題。疑問は、通俗的な俗界のイベントたる選挙の坦面に、なぜ、だるまが引っ張り出されるのか? なぜ、だるまは点睛されていないのか、である。禅宗の開祖である達磨大師の肖像との相似から、両者の同一性は自明のことと思われるのがが、どういった経緯をたどって縁起物の目無しだるまへと変化したのだろうか? 由来と原形となった達磨大師の人となりと経歴は別項でふれることとして、ここでは目無しだるまの濫觴をひもといてみたい。
まず、そもそもの初めから目無しであったと仮説を立ててみる。そこで文献をひもとくと、数ある達磨大師の伝説のなかに、面壁九年の修行の際、睡魔に襲われないように瞼をちぎり捨てたという話に行き当たる。仏法修行のために、自分の目を自らくり抜いて犠 牲に供したという話は、原始仏教時代からあるわけで、あながちこの話は風説ではないのかもしれない。ならば、この達磨大師の話に関連づけて目無しだるまを作ったのではあるまいか?残念ながら答えは否、この仮説は短絡に過ぎると思う。
いくら人形や置物だからといっても、目がなければ薄気味悪いし、まして縁起物ともなればなおさらマズイ。人間でも目は心の窓であり、主眼とも眼目ともいわれるように生命の輝きそのものであるわけで、仏作って魂入れぬのたとえのように点睛開眼しているからこそ生命と信仰のシンボルとなりえるわけだ。そういうわけで目無しには別の理由があると推測される。
そこで、だるまには目があった。そして、いつの頃からか目無しになった、と考察の角度を変えてみよう。山東京伝作の『腹筋逢夢石』という文献がある。文化七(一八一〇)年に上梓されたものだが、この第三編に起き上がりだるまが目無しで売られていたという記述がある。おのずとだるまが目無しになったのは文化以前のこととなる。これで目無しになった時期はおおよその見当が付くわけだが、その理由が分からない。いや、分からないというよりは調べる文献で由来譚には諸説があってどうも判じ難いのだ。 例えば有力な説のひとつに無病息災、快癒祈願の思いを託した疫病避けに起因するというものがある。
当時、癌瘡にかかったら眼を大切にせよ、という養生訓があった。病菌が目に入ると盲目になると恐れられていたのだ。それがいつの頃からか達磨大師に祈願すると、病瘡にかかっても軽くすむとか、眼が潰れないとか、そのご利益が巷間に流布したという。当然だるまは疱瘡除けの縁起物として、需要が急激に増えていった。買い手は迷信心理として、少しでも目が上手く描けているものを選ぼうとする。裏を返せば、日が上手く描けていないだるまは売れ残るというわけだ。いつの時代にも知恵者は居るもので、買い叩かれたり、売れ残らないようにと、その男(女だったかもしれない)が店頭に目無しのままのだるまを並べて売ることにした。客の注文に応じて、その場で目を入れることにしたわけだ。すると、これが大当たり。以来、だるまは目無しで売られることになったという説である。
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